きづいてしまったら、もう
079:君が笑っているだけで幸せ、そう言ったのは確かに自分だった
垣根が鳴った。灌木が茂るそこはちらほらと花を咲かせては散らせていく。極東の生まれ故郷ほど細分化されてはいないがこの大陸にも季節がある。同じように花が移ろい散っていく。大きな戦いが近いようで港湾部はしきりに人手を欲してわいた。素性などどうでもいいと言いたげに日雇いを消費するそれは破滅に向かう熱量の発散場だ。葛が一時身を寄せていた男は、戦争があるといった。世界を分ける戦争だ。日本はそこへ向かおうとしている。だから君の力がほしいんだ。甘く耳に残る声。言葉。それでも葛が選んだのは三好葵というあけっぴろげで屈託なく笑う男だった。今、危機に瀕している世界があるならそこから救う。国や人種にとらわれない彼は自らさえ捨てて何かを救った。爆散する飛行機はつい一瞬前まで葛も乗っていて、そこから生還するすべは葛の特殊能力くらいしかないと考えられた。だから葛は葵に一緒に逃げようといったのだ。葵は拒絶した。この塊を放っておけない、オレが、世界の外まで弾き飛ばすしかないんだ。葵の言葉に迷いも恐れもなかった。葛はここで退いたことを何度も悔やんだ。
自然崩壊的に特殊機関という組織は消滅し、葛は寄る辺をあっという間に失った。それでも、あの日に爆散した飛行機の中へ葵の肉片を見つけられなかった葛は諦め悪く大陸へ居座った。几帳面な性質であるから公的な文書や論文、賞状の代筆といった内職で食いつないだ。毛筆ができたし期限も守る。一定の収入になったことがズルズル居座る原因であったかもしれない。それでも。葵は還ってきた。時々血痰を吐いたが元気に港湾部の人足などして日銭を稼いで葛の元へ転がり込んだ。二人で営んでいた写真館は、葵が行方不明になった際に葛がたたんだ。軽率だと責められても構わないというのは強がりで、葵のことが話題にのぼるあの地域にいることに挫けた。
その結果として葵と葛の付き合いはまだ続いている。だがそれが永遠でないことを知らないほど葛も幼くないし無垢でもない。その時のことを思うと目の前に暗渠が口を開ける。爪先のもうすぐそばまでくれているように消滅して葛は一歩も動けなくなる。何も見えない何も聞こえない何も判らない。だがそれでも踏み出さなければならないことがあることも判っている。迷うときに葛はいつもこの庭に立つ。役に立つかどうかさえ危ぶんだ華道の心得が気持ちの昂ぶりを静めてくれる。花を見るたびに静謐な沈黙が満ちる。葵が言うには花を活ける時に葛はなんだかすごく綺麗だ、と。葛は自分が特に美貌であると思ったことはない。十人並みの顔立ちだし性質も可愛げがない。葵のように明朗闊達であったならまだマシだ。気難しい上に愛想もないので基本的に商売っけが優先する大陸には不向きなのだ。
葵だけであったら、もっと上手く生きていけるのだろうな。そう考えては何度も夜中に目が覚めた。自分が枷になっているのではないか、足手まといなのではないか、葵の新しい出発を自分が阻害しているのではないか。考えるのは怖い。考えないのはもっと怖い。もしそうだと言われたら俺はどうしたらいいんだろう。ぱち、と鋏を入れた。鮮やかな山吹色が発光しているようだ。甘くふくよかな香りがする。何度か鋏を入れるのを繰り返し、山吹や白を揃えて座敷へ戻る。華道もかじった程度であるから正確な花名など知らない。小鳥たちのおとしものも多い。いつの間にか芽吹いている花があれば、そういえばあれはどうしたろうと思うものもある。斜めに水切りをしながら背後がきしりと鳴った。
葛は静かな声で告げる。
「くるな」
しん、と背後が静まる。その静寂はどこか泣きだす前の静けさだ。ごくんと喉がなってから明るい声がした。葵だ。足取りも軽やかに葛の向かいへ位置を取る。
「邪魔かな? でも葛ちゃんが花をいけるのいいねー、綺麗だ」
折った膝に肘を乗せて歯を剥きだして笑う。
「俺は綺麗なんかじゃない」
ぱちん、と鋏が鳴った。葵はなにも言わなかった。ただ微笑んでいた。
葛は明確に葵に対しての態度を変えた。必要な事項以外は口を利かない。明確にうるさがった。葵が暇つぶしで話しかけても相手をしないし、繰り返すうちに自室へ引き取る。閨も間があいた。もともと、所属機関の機密性を重視した結果として互いを発散の相手にしただけである。その機関がすでにない以上、欲望の捌け口を葵だけにする理由はなかった。葛は次第に家を空けるようになった。仕事だ打ち合わせだといって家をでるのはいいが帰らない。そのまま路地裏で夜を明かす。葵ではない男や女が葛のそばへ寝た。交渉の役割には柔軟性をもたせていたからどちらの立場になっても葛は上手くこなした。それでも葛は自分を抱く男を探すようになった。見知らぬ腕に抱かれながら葵はこうだったと思いだしては吐き出すように求めた。怜悧な容貌の葛が乱れるのを相手の男は特に好む傾向があり、誰もが浮かれて溺れた。葛は一人で静かに倦んだ。
たりない
何が足りないのか葛にも判らない。そもそもどうして足りないのかも判らない。それでも葛は家に帰らなかった。葵と暮らそうと思った家だ。後悔はしていない。
だがこうして葵のことを考えてしまう自分が嫌だった。葵はもういないかもしれないし時折顔を合わせるだけの葛など疎んじているかもしれない。それでも最後のつながりとして葛は家は手放さなかった。必要な手続きは踏むし、書類も揃える。葵と同じ屋根の下にいるのが嬉しく同時に気をくじかせる。葵が葛を責めないのが拍車をかけた。葵はすべて許すと言いたげに葛の外泊を問い詰めない。家に帰ればおかえりと迎えるし出かけるときにはいってらっしゃいという。ただ、いつ帰るの、とは訊かなくなった。
「ん、ンッ…」
ぎしり、と揺さぶられる。熱い息を吐きながら葛は冷たく相手の男を思い出す。経緯さえ覚えていないし、どうせ今宵限りだと思えばどうでもいい。葵だったら、ここを触ってくれるのに。思いついては倦んだ。泣き出したいもどかしさに似た。葵は意地悪はしたが険悪にはならなかった。葛が怒るのをごめんねと受け流し、葛もしょうがないなと許容する。言わなくても判る何かがあって、それが葛を縛り続ける。葵だったら。葵は。葵が。顔さえ覚えていない一夜限りと葵を比べては気が滅入る。葵に拘泥する自身の弱さにも怒りがわいた。葵がいなかったときはそれがいつ終わるともわからなかった。それでも待てた。なのに、今の俺は。
おれは
ふっと影がさす。目を向けるとそこにいたのは葵だった。息を呑んで目を見開く葛を横目に葵の濁った視線は葛の体を揺する男に向けられている。突き刺す視線に男も気づく。そもそも路地裏では道で抱きあうのが同性だろうが異性だろうが気にもとめられない。だからこそ露骨な葵の視線は際立つ。男が威嚇するのを葵は無視した。葛だけを射抜く強さで見つめている。葛の喉が鳴った。男が誰何しようとする、瞬間。
爆発的な熱量で男の体が吹き飛んだ。突き入れていただけのつながりはあっという間に引き剥がされる。吹き飛ばされた男は壁に叩きつけられて嘔吐いた。捨て台詞を吐いて暗がりへ消えていく。葛とは金でつながった間であるから相手にも葛にも執着はない。
「葛、どういうこと」
暗がりで葵の肉桂色の双眸が昏く煌めいた。葵の特殊能力だと気づくと同時に葛の中で戦闘のスイッチが入る。葵と同じように葛もある程度の修羅場はくぐっている。葛は白い脚をあらわにしたまま立ち上がった。ぽたぽたと水滴が脚の間から滴った。瞬間、葵の瞳孔が集束するのをとらえる。くる、と思った時には壁に叩きつけられていた。
「が、っは…!」
渇いた咳が喉を蹂躙して激しく咳き込んだ。澱を吐いて仰け反る葛がくずおれる。そこへ葵はゆっくりと歩み寄ってくる。
「今なら言い訳で赦すよ。――どういう、こと」
「お前に関係ないッ」
意識する前に頬を打たれた。刹那に垣間見えた葵の顔がひどく泣きそうで葛が怯む。
葵を待っていたというのは嘘ではない。葵を理由にして、実家へも軍属へも戻らずこの大陸にとどまった。葵の動向が判ったら、葵の生死が知れたら、その時は。そう言い訳して葛は何度も、大陸を離れていく船の汽笛を聞きながら船出を見送った。その船に葵が乗っていてもいいと、思ってた。
「かずら、どうして」
葛は俯けた顔を上げなかった。噛み締める唇の痛みさえない。腫れた頬が熱を帯びるのが別物のようだ。そこだけ剥離したように葛の意識にさえのぼらない。葵はまだ、葛に優しかった。言い訳しろと言っている。その理由を言い負かせてみせると態度が言っている。だから葛はここにいて、いいと。
甘えだ
「どうして。ねぇ葛、どうしてなんだよ」
葵が棒立ちになっている。葛は何も言わない。そういえば葵は葛と話すときはいつも視線の高さを合わせていたと思った。そんな何気なさや優しさに気づけないから俺はこうなるんだ。
「……葛。なにか言って。オレが悪いのかなぁ? なにが、いけないの」
葵の声が震えている。泣いている時の震えだ。葵は今、自分を責めている。何とかしたいと思うからこそ、葛は何も言ってはいけなかった。小さな傷ですむなら。葛が口を出して葵を慰めればその傷は容易に広がるだろう。
「葛を待たせちゃったから?」
泣いている声だった。葛は目の前の生白い膝を睨みつけた。下肢が疼いた。体は葵の熱に慣れている。それでも、妥協するわけにはいかなかった。唇を白くなるまで噛む。皮膚が裂けて溢れた血が、肌よりあざとく紅く唇を染めていく。
「かずら、なんで」
「嫌だ」
やっとの思いで吐き出したのはその言葉だった。
「どういうこと」
「嫌だ」
「なにが?」
「いやだ」
「かずら?」
「いやだ!」
葵がぎゅうっと切ない顔をする。泣きだす前のこらえるそれを、それでも葵は微笑んだ。
「何が、嫌なの。オレが葛を待たせたから? オレ、葛の気に食わないことした? なにが、いやなの」
答えない。答えられるわけがなかった。言いがかりなのだ。葵に非がないから、だからこそそれと悟られてはいけないのだ。葛は頑なに口をつぐんだ。目線さえ合わせない。葵の顔が見えない代わりに葛の表情もあらわにならない。葵の吐息だけが葛の情報源だ。そしてそれが、すべてだ。
ぽた、と雫が地面に染みた。
「葛…オレの、顔見て。オレの顔見て言ってくれたら、オレは」
信じるから
葛が喉を鳴らす。数瞬の間をおいてから葛は顔を上げた。傷つかない。嘘もつきとおす。決意だった。
「お前には関係――」
にぃっと。葵は笑った。その目縁から涙が溢れて絶えることなく頬を濡らす。洟まで垂れている。それでも葵は、葵らしい明るい笑顔を見せた。泣きながら。
「…――関係、ない…」
戦慄いた唇が。怒号でも罵声でも良いと思った。そうしてくれ、たら。
「ごめんね」
葛の漆黒が収束した。見開かれた目を葵は泣きながら見返して、笑った。その頤からぽたぽたと雫が垂れるほどのそれを、葵は感じさせないはっきりとした声で言った。
「葛、ごめんね」
葵はずず、と洟をすすってから立ち上がった。頬を濡らす涙さえ拭わない。
「ごめ、ん」
震える声だった。くるりと、その背が向けられる。短い肉桂色の髪。驚くほど綺麗なうなじ。肘まで袖をまくってしまう葵のなり。ぜんぶ。全部、葛が欲しかった、モノ。
「――…ぁ、お」
喉は潰れて声が出ない。だが片隅でささやくものがある。それでいいんだ。
葵が遠ざかる。ソレデイインダヨ。葵。俺はお前が、お前――
「お前を憎めたらいいのに」
どちらの言葉であるかさえもわからない。
葵の足が止まった。瞬間、葛の中を駆け巡ったのは憧憬や歓喜や失望や。
「葛の笑顔、好きだよ。葛がオレの笑顔を好きだって言ってくれたのも。でも、…もう、オレの笑顔じゃ幸せになれないんだな」
葛の表情が凍った。いつだったかさえ覚えていない。葛はオレの事好き、どこが好き? 答えに窮した葛はやけになって言ったのだ。
お前の笑顔は幸せになれる笑顔だ
葛は返事をしなかった。葵は微笑んでから立ち去った。その頬が薔薇色に火照って涙に濡れ光っていたのを葛はきっと忘れられない。
「――――ッ!」
葛の体内で慟哭がこだました。言葉にするには葛は未熟で、音にするには激しすぎた。息を詰めて何度も喘ぎながら葛は、泣いた。
「は、は」
葵の笑顔だけで葛は。生きてなんかいけない。お前が欲しい。葵の優しさや明るさや気遣いや。性質や。葛の中で葵は絶対だった。絶対になくさないものになっていた。すべてを失っても葵はきっとそばに居てくれるから、それだけで。それだけで、生きて、いけると――
「あんた、美人だないくらで相手する」
見知らぬ声だった。葛は薄く笑った。涙で潤んだ双眸は情欲に潤んだそれによく似ていて、区別はつかない。葵、以外には。血で染まった唇は紅く、肌は白い。蒼白いほどの白い脚は艶めいて男を誘う。葛の怜悧で高貴な容貌は男たちの粗暴な欲望の標的にされる。
「いくらでも」
心底、どうでも良かった。どうせ葵じゃないんだ、葵は、もう。葵は、俺なんか。だったら、もう。
「いくらでも、いい」
「いい拾いもんだな」
拾うと言われて葛は己が捨てられているのだと知る。そのとおりだ。俺は、葵から離れて――捨てられた
あなたの笑顔で幸せになれました、俺の笑顔で君が幸せになれたら嬉しい。
葛は笑った。
凄絶な美貌だった。
《了》